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第1080話

Author: 宮サトリ
だが、彼女の前で「ぼんやりしていた」なんて認めることなど、浩史にはできなかった。

それに、今この部屋にはもう一人いる。

彼は視線を少しだけ横にずらし、淡々と口を開いた。

「あっ君の名前は?」

突然名指しされ、沙依はびくりと肩を震わせた。

「あっ、あの......大内沙依です!」

「そうか」

彼はわずかに頷き、まるで先ほどの沈黙などなかったかのように静かな声で続けた。

「昨夜はあまり眠れなかった。少し疲れている。コーヒーを淹れてきてくれないか?」

冷たくも自然な口調。命令とも、雑談とも取れない。

ちょっと待って、私がさっき「そんな仕事じゃない」って言ったばっかりなんだけど!?

由奈は目を丸くした。

唖然としたまま、沙依と視線を交わした。

新人は戸惑いながらも、由奈の小さな頷きを見て慌てて部屋を出ていった。

扉が閉まると、室内には二人だけ。

しんと静まり返った空気の中、由奈はじっと浩史を見つめた。

「......社長、昨日あんまり眠れなかったんですか?」

彼は答えず、逆に問い返してきた。

「化粧したのか?」

一瞬、思考が止まった。

まさか、浩史にそんなことを聞かれるとは思わなかった。

ていうか、そんなに珍しい?

ほんの薄化粧なのに。

みんなして私の顔ばっかり見て......普段そんなにひどい顔してるの?

居心地の悪さに、由奈は無理やり口元を引きつらせた。

「......化粧くらい、してもいいでしょ?」

その棘を含んだ声音に、浩史は一瞬だけ唇を引き結んだ。

だがすぐ、少し低い声で尋ねた。

「会社を辞めるから、気分がいいのか?」

「......え?」

言葉の裏に、微かな棘。

彼がまだ退職の件を引きずっているのだと気づいて、由奈は内心で頭を抱えた。

いやいや、もうサインまでしたのに、今さら何?

しかし、上司の前で「気分がいい」なんて言えるわけもない。

由奈は瞬時に笑顔を作った。

「そんなことないですよ。ただ、もうすぐ会社を離れるので......せめて最後は、いい印象を残したいと思って。本当はすごく名残惜しいんです。全然うれしくなんてないですよ」

社会人の常識は本音を言わないことだ。

そう思って笑顔を見せたのに、返ってきたのは予想外の言葉だった。

「名残惜しいなら、残ればいい。事情があるなら、話してみろ
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